生立ちラスト、結婚~専業に近い生活へ、、、

の続き。

20代後半、年上の子と同棲しつつ脱アル中中。本業の間を埋めるべく港の人足をしていましたが、本業の仕事のひとつとして今の嫁となる人を紹介されました。

うちの嫁は元同業で、一応某メジャーメーカーからデビューしていたシンガーでした。このときはそのメジャーの契約が切れて、インディレーベルに移籍したところでして、バックのミュージシャンを一新するとかで紹介されました。

これがまた暗~い曲ばっかりでお茶の間は厳しいだろうな、、という感じでしたが、自分にはズバッと刺さってしまいまして、、、

知り合って2ヶ月で付き合ってその4ヶ月後には結婚していました、、、

その時一緒に住んでいた年上の子のことは、万が一にも裏切ることはないだろう、と思っていましたが

「寝言で○○(←嫁の名前)ってよく言っているけどなんなの?」

と、昭和のコントのような流れで決断を迫られて、結局嫁とくっついてしまいました、、、

うちの親もお堅い人ですが、嫁のお父さんも某超有名企業の某支社長をしていたような人なので、よくも自分みたいなフーテンとの結婚を許してくれたもので、、

と言っても挨拶に行く前に入籍してしまったのですけどね、、もう30歳手前だったのに社会性ゼロですね、、、

人足とはいえ、たまたまカタギの仕事をしていたのがタイムリーだったのかもですね。嫁には結婚して数年後、なにかのケンカの時に「結婚する前パチプロだと知ってたら結婚してなかった」とズバッと言われたことがあります、、、

最後の切り札を持たれているから夫婦喧嘩は勝てる要素ゼロですね笑

そんな感じで結婚しても、音楽の仕事の合間に人足の仕事をしていたような、人足の仕事の合間に音楽の仕事をしていたような、どっちつかずな日々の中。。。

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自分はガタイに恵まれているとは言えませんが、負けん気だけは強くて肉体労働の人足もついつい頑張ってしまい、、

というか早く終わればそれだけ早く帰って練習できるから頑張っていたわけですが、そうなるとどんどんキツイところに回されるのが世の常らしく、ついには一番重く、どれだけやっても定時までのところに回されるようになりまして、、

これはやってられないぞ、となっていきます。ダメ人間の本領発揮ですね。。

更に決定的なことが起こりまして。

人足の仕事が終わった時に、本業の知り合いからの着信に気づいて電話をすると

某超有名なアメリカのアーティストがツアーで来日していて、バックのドラムの人が「時間ができたので日本人ミュージシャンとセッションしたい」とか言ってたからどうかと思って電話したけどもう終わったよ。

とか言われまして、、、

これは完全に本末転倒だぞ、と。

明日明後日の予定は空けられても、当日いきなり帰れるバイトというのはなかなかありませんよね。

結婚したのが2003年の秋だから、2004年のことだと思います。狂乱のAT時代は終わり、吉宗北斗のST時代へ移っていたころでした。

初代北斗や吉宗がバリバリっと現役なわけで、バイトで稼ぐくらいのお金は、スロットでどうにでもなることはわかっているわけで、、

クランキーコンドルで勝てるようになったとはいえ、ここまでパチンコで生活する気はゼロで、あくまで日銭の延長。勝てば遊んでパンクを繰り返してきましたが、この時ついにパチンコで生活費を稼ぐことを決心します。

しかし、パチンコで生活費を稼ぐことに決めたといっても、結婚してからは、お金はいったん家計の財布にまとめての小遣い制だったので、資金がありません。

更にパチンコとは無縁の嫁だったので、それで納得してくれるかどうかもわかりません。

なのでとりあえず人足はすぐにはヤメず、隙間隙間にスロットのハイエナから始めました。

タネが枯れたら独身のノリ打ちの相方Y君にでも借りる気満々で、吉宗の965抜けあたりはガンガン打っていくと、引き強期間も重なって、20万くらいはすぐにできました。

20万できたら嫁に打ち明けようと思っていたので、20万に届いたときの吉宗のダブル揃いの光景は今でも鮮明に覚えていますね~

その日の夜に嫁に現金を見せて

  • 人足は本業に支障をきたすのでマズい
  • これをタネにスロットで凌ごうと思っている
  • 現状と同じ額は必ず同じ日に入れる
  • スロット生活がイヤになったら言ってもらえればすぐにヤメる

という考えを打ち明けました。

すると

「勝てるんなら別にいいんじゃない」

と言われて、あっさりこの生活がスタートすることになりました。。。

当時は、大きめの駅の近くに住んでいたので、近くにパチンコ屋も多く、スロットはどうにでもなりました。

宵越しを狙いつつ、資金が貯まってくると6狙いをしたり。

パチンコで生活費を稼ぐことにはなぜか寛容な嫁でしたが、夜遊びにはうるさくてムダ遣いすることも減り、以降なんとかパンクせずにこれましたね。。

4号機末期はまだまだ店のガードは非常に甘く、宵越しだけでもホントどうにでもなりました。

沖縄サイコー嵐のガセ夜明けの通B狙いなんかも、ガックンを見ておくだけで打ち放題だったり。ガックンからのプシュン、、

とか、天国残しとか、今では考えられませんよね。

その頃はほとんどスロットのみで、パチンコはほとんど打っていないので、スキップ機は結局1回も触ったことがなかったりします。。。

アラジンや湘爆なんかはそれっぽい人の縄張り意識が強そうで、手を出していませんでした。そこまで無理しなくてもどうにもなりましたしね。

とかやっているうちに潜伏確変の存在を知ります。一番最初に拾ったのはゴエモンで、常時点灯でしたね。

2005年か2006年ですかね。。

緑のランプがピッカリしていたのをキッカケに徐々にパチンコにも戻っていくことに。この頃のパチンコは海の天下で、各メーカー海物語のバッタモノが出まくっていた頃ですね。

しかしデジパチは潜伏以外はそこまで打たず、原点回帰でハネモノから始めました。スロット=等価だったからパチンコも等価の店が多く、等価のハネモノなんてほとんど貯金箱でしたが、非等価の店を見ると意外と良くて逆に新鮮でした。初代レレレやイヤミもあって、これまたどうにでもなりました。

特にイヤミは狙えたので良かったですよね。高価&無制限ではなく、スロットの合間に低換金店&定量制で1台終わらせる。

みたいな感じで再びズブズブとパチンコにのめりこんでいくことに、、、

しかしこの頃は上京した頃の自分のバンドはとっくにヤメていて、本業はバックミュージシャンと制作、それとジャズバンドをやっていました。

ロックで育ったやつがジャズなんかやろうと思ったらこれまただいぶ練習が必要なわけで、、

30代前半にして、これまた練習の鬼になっていたので、この頃も終日打つことはほとんどありませんでした。当時のエクセルを見ると、年間で1350時間とか。このくらいの稼働時間がやっぱり理想ですね〜

といってもこの頃の時給に今では絶対届かないでしょうが、、、

6をツモった時くらいはさすがに打ち切っていましたが、ファイナルジャグラーの発表4なんか平気で捨てていたのでもったいない話ですね、、、

そんな感じで専業のような生活が始まってしまい、今に至ります。

こんな生活も、5号機移行でヤメるつもりだったのに、結局5号機時代は丸々続いてしまいましたね笑

水商売の女の子が「ヤメないとヤメないと…」と思いつつ、ズルズル続けてしまうのと同じような楽さがこの稼業にはありますからね、、

5号機に完全移行するまでには、35歳になるまでには、子供が産まれるまでには、子供が幼稚園に入るまでには、小学校に入るまでには、、、

と、ズルズルズルズル、、書いててイヤになりますね笑

なんにしてもパチンコやパチスロは、勝てるようになるのはわりと簡単だけど、パンクしないように勝ち続けるというのは、私生活も含めて少し違う。

という感じですかね~

結婚してパンクするわけにはいかなくなったけど、仕事が増えるわけでもないしで流れ流れてこの稼業。という感じでした。。。

といった感じでフーテンのダメ人間誕生シリーズ。

誰も知らないネタを見つけてガッツリ、とか、そんな一流所な武勇伝は一切なく、ただダラダラとパチンコ依存症ができあがるまでのまったりした話でした。

ここまで長くなるとは思いませんでしたが、最後まで読んでくれてありがとうございました!

ホントはタンクロウ君になるまで書こうと思ったんですけど、長くなったので00年代のパチンコはまた番外編で書いてみたいと思います。。。




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