4号機中期~狂乱のAT時代、なんとか勝ててはいたものの、、、【生立ち⑤】

の続き。

クランキーコンドルの登場により地味に勝てるようになってきたとはいえ、まだまだ遊び打ちも多く、安定した収入といった感じではありませんでした。

何度も書いてきたように、パチンコで生活するつもりなんて皆無だったし、ヒモのような生活で目先のお金にも困っていませんでしたからね、、、

しかしそれまで上手いこと繋がってきたヒモが、ある時プツンと切れてしまいました。

平たく言うと、その時一緒に住んでいた彼女にフラれてしまったんですね。。

ピンチが来そうな時の鼻は利く方だと自負していたので、完全に不意を突かれた形となって、これはショックでしたね~

しかしそこはダメ人間を放っておけない系の女の子。いきなり出ていけでは申し訳ない。アタシは取りあえず実家に帰るので、2~3ヶ月の間に住むところを見つけてほしい。

という申し出が、、、

う~ん、、、いい人ですね~

そこから真面目にバイトを始め、るハズもなく、かといって本腰入れてスロットで立ち回り始めるでもなく、、、

真面目に次の彼女を探し始めるダメ人間っぷり、、

この部屋は結局半年近く居てしまいましたが、3ヶ月目くらいから家賃を払ってくれなくなって、外から部屋に鍵をかけられてしまいました。

全部がそうではないでしょうが、この時のこの不動産屋は、ドアの鍵穴を塞ぐように、ドアノブを中心とした円形の鉄板をバーンと張り付けて鍵を掛けてきました。

初代牙狼の、上から降りてくる丸い役物みたいな感じですね。初代牙狼を初めて打ったときは、まずこの施錠を思い出しました笑

しかし2階の部屋で、ベランダの鍵はかけていなかったので、ベランダから入って2ヶ月くらいは鍵を開けっぱなしで暮らしていました。

その間に彼女は2回できたけど、2人とも実家というハマリっぷり、、

どうしたものか、、と途方に暮れていたところ、、

その頃はノリ打ちの相方Y君らと自分のバンドをやっていて、地方に居てもしょうがないし東京に出るか、と軽く話していまして。

じゃ東京行くか、と、そのままY君の運転するバンドの機材車ハイエースに、機材と詰め込めるだけの私物を詰め込んで、メンバー4人で上京することになりました。

人生設計ゼロですね、、、

サンダーが出たのはまだ地元にいた頃で、ハナビが出たのが上京後だったので、その頃のことです。

_ _

もう東京には演奏しに何度も来ていて、だからその延長でフラッと上京したわけですが、当時の都内のスロットはすでに等価の店が多く、7枚交換の地域で育った自分にはそれはそれは衝撃的でした。

等価の初打ちは忘れもしないフリッパーで、ツアー中友達の家の近所の店で夕方から2000枚くらい出て、いきなり4万になってビックリでしたね。。。

と、何だかんだで東京生活が始まるわけですが、地元に彼女を残してきたので、上京後はノリ打ちの相方Y君との同居生活となりました。

その頃はリプレイハズシ全盛。出る台出る台「設定1でも機械割100%オーバー」な謳いの機種ばかり。急速に等価化が進んでいたこともあって、この頃はホントスロットで勝っている人が多かったですよね。

なのでこの頃はパチンコはほとんど打っていませんでした。

クランキーコンドルで直球で2000ハマリしたり何だかんだあったけど、極々平凡な感じですね。
ワニマルが好きでした。。

朝一〇回BIG早掛け先着〇名様に設定6に打ち換え!

とかメチャクチャなサービスをやっている店も多かったですよね~

しかしそういうところは人も多いので、当時から過疎店好きな自分は、ボッタ店でまったり、、今と変わらずですね。。。

しかしヒモは切れて自力で生活しないといけないのに、あればあるほど遊んでいたので、しょっちゅうパンクしていました笑

時は90年代。クラブ(←踊る方ですよ)全盛?の時代。今はすっかり疎遠になったので今のシーンは知りませんが、当時のクラブシーンは結構盛り上がっていて、小金をつかむとすぐに遊びに行っていたので、貯金なんてまるで無縁でしたね~

パンクすると知り合いのテキ屋を手伝ったり、日雇いに行ったり。タネ銭ができるとクランキーコンドルを打ちに行ったりで、THE・その日暮らしといった感じですね。。。

パチンコパチスロで店が雇った打ち子(サクラ)は本当に居るのかで書いた、アステカとホットロッドクイーンでサクラをやったのもこの頃です。。

昔こち亀で、両さんが小学校の同窓会に行くと同級生が組員になっていて

「勘吉、お前は今何をやってんだ、ヒモか?テキ屋か?」

みたいなシーンがありましたが、それを思い出して、ヒモかテキ屋か、、、

自分は一応音楽は頑張っていて、別に普通の人間だという自負がありましたが、それは勘違いで自分はダメ人間なんだな。と、テキ屋をやっているときにやっと認識しました笑

そんな宙ぶらりんな生活の中、初の全国区の仕事はBSNHKの某スポーツ番組のエンディングテーマで、それまで人前で演奏することによってのみお金をもらっていたのが、不特定多数の人に聴いてもらえる感覚を知り、人生の方向性が決定されたような感じでした。

しかし人生の方向性が決定されたといってもすぐに仕事が増えるわけがなく、自分のバンドが上手くいくわけでもなく、、、

バンドは上手くはいかないけど、メジャーの会社の人とのやりとりなんかは自分ひとりでやっていたので、それなりのプレッシャーでして。。

どんどん酒ばっかり飲むようになって、90年代の終わりの方は完全にアル中でした、、、

起きたら飲んで、潰れるまで飲んで、、
ついには楽器を弾くときまで酩酊状態、、

普通に東京に負けたということですね。。。

「シラフの時間が少ないほど勝ち」とかくだらないことばっかり言っていた中、2000年には本当の意味での超革命機種、獣王が出てきましたね。ハズレの概念、SC潜伏、連チャンと、これまで裏物以外不可能だと思われたゲーム性を、合法で完全に作り上げましたよね。

ホントメーカーは天才の集まりですね~

と、雑誌で解析は読んではいましたが、そこまで打ちには行っていませんでした。

アル中でそれどころではなく、本業も色々踏ん張りどころが重なって、、

更に、元々並んでまで、というタチの自分にとって、この時期の並び合戦からの終日稼働は完全に相性が悪かったです、というか淘汰されただけなんですけど。。

コンドル時代から狂乱のAT時代に突入したときに、足を洗った人もかなり居たと思います。「コンドルの頃は打ってたけどね~」という人にも何人か会いましたし。

機械割140%とかの狂った時代だから、閉店前からの徹夜での並びとか普通でしたよね。

だから歴は長いくせに、最も狂乱のこの時期のスロットにまつわるイカツイ話がまったくなかったりします、、、

ノリ打ちの相方Y君はというと、クランキーコンドルは鬼のように強かったんですよね。このころもよくノリで打っていましたが、Y君頼りの日が多かった気がします。

しかしY君もこの頃完全に煮詰まっていて、ほとんど打っていませんでした。が、Y君はちゃっかり初代ビンゴで万枚出したりしていましたね笑

サミーのコピーも、発覚(たしか10月1日でしたね)する3日くらい前に、知り合いに「そ~っとレバーを下に半分くらい下げると何かあるらしいぞ」

と教えてもらっていたのに「そ~っと…」って言い方がいかにも安っぽくて、さらにサミーのような大会社が…と、まったく信じずで実行しませんでした、、
まさかあんなことになるとはですね~

そんな中、地元に残してきただいぶ年下の彼女は、規定ゲーム数に到達して追いかけるように上京してきていました。

ので、Y君の部屋からは脱出して、いつものようにその子のところに転がり込んではいましたが、さすがに年下すぎて、、もあってヒモ気質からは脱却していました。。

アル中がひどかったからかその子とも別れて、今度は年上の子と一緒に住み始めていて、年上だったので結婚も考えないと、、、

とか思いつつ、これまた酒飲みの子だったので、2人して無職でアル中街道まっしぐら。。。

パチンコ屋からは更に疎遠になって、たまに獣王猛獣王の天井狙いをしたり、一応初代で降臨も引いたことはある程度には打っていて、なんとか地味に暮らしていけはしましたが、、

さすがにこのまま酒に浸っていたらマズイだろう、、

というかアル中で死んだらカッコ悪すぎだろう、、

と危機感を感じ、20代終盤にして人生唯一の同じ場所への通勤。
港の人足を開始します、、、

もちろん社員でもなんでもなく、本業の邪魔にならないような日雇いの延長で、なので、週5とかではないですが。

港の人足は労働はキツかったですが、好きな日に出ればいいので、役者やミュージシャンで仕事がない日を人足で埋める。という同じような境遇の人が多く、意外と居心地は悪くなかったですね。。

完全にお茶の間レベルの仕事もしているのに、それだけでは埋まらずバイトをするような人は思っている以上に多く、東京はホント凄いところだと思いましたね~

といった感じで、なんとか常時酒が入っている状態からは脱却し、徐々に社会復帰かと思われはしたのですが、、、

続く。。。
生立ちラスト、結婚~専業に近い生活へ、、、


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